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正光院の再建

戦災から落慶まで

現在の税務署側から見た「正門」

昭和20年5月25日の空襲により麻布地区の大部分が焼失しましたが、当正光院も例外ではなく、本堂、山門、庫裡などのすべてを失ってしまいました。

当時の住職蓮真猛僧正は前年の19年9月にすでに遷化しており、寺縁のある日本橋小伝馬町の大安楽寺の兼務となっていました。この空襲のあと間もなく8月15日の無条件降伏、終戦となり、そして戦後のあの混乱の中で、約10年間住職のいない空白状態が続きました。

昭和30年1月、前住職の隆進僧正が広島県千林寺より兼務住職として着任し、引き継ぎをうけた檀家名簿と過去帳を手がかりとし、地図を頼りとしながら檀家各戸を歴訪し、住職就任の挨拶をかねて復興再建の懇請をし、また墓参に訪れる親戚知人の方の話を参考にして、檀家名簿の整理につとめました。

当時の「仮本堂」
東京タワーがまだ建設されたばかり。

この頃の正光院には屋根の低い小さなバラックが一棟ありました。6帖ひと間のこの建物は、戦災に遭わなかった高輪の高野山東京別院から貰ったというトタン葺きベニヤ張りで、境内の真中にポツンと建っていました。これを囲んで境内には焼け落ちた瓦礫がうず高くつもり、足の踏み場もない状態でありました。また、墓地も同様に瓦礫と残土がすごく、中には半分くらい埋まったお墓もあり、焼夷弾の筒が無数にころがっており、それらを覆い隠すように草や木が茫々と生い茂り、まったくの廃墟という感じでありました。墓参のとき、ノコギリや鎌を持ってきたものですと述懐された檀家の方もありました。

正光院再建の第一歩は、この瓦礫を始末することから始まりました。同時に墓地を整理整頓し、無縁墓を合祀するなど、多くの方の協力を得て僅かづつ進めていきました。

着任した頃の前住職

また、前住職は昭和31年5月に晋山式を行ったのち、当初のバラックに8帖、3帖の間を付け足して仮の本堂庫裡とし、隣地との境界を測量して境内地の確認をするなど徐々に再建へむけて周辺の整備をしていきました。

戦後は終わったという言葉が使われた昭和30年代を経るなかで、東京オリンピックが終わり、高度経済成長のなかで高野山開創記念大法会が終わった昭和41年に至って、ようやく本格再建へ向けて経済基盤確立のため、本堂再建4ケ年計画を進めることとなりました。同時に戦災で焼失した本尊様だけは早くお迎えしたいということで、高野山親王院中川善教僧正より格別のご配慮を頂いて同年10月22日、現在の本尊薬師如来様の勧請入仏法会を行いました。

しかし、昭和45年、再建計画が終盤にかかる頃にもかかわらず、募金額も目標になかなか達せず、総代役員にて計画の修正を協議していた折、突如としておこった48年のオイルショックにより、金融引き締めと狂乱物価にあい、この再建計画も時代の波にもまれやむを得ず一時中断せざるを得ない状況となりました。

高い建物がまったくない桜田通り
(現在のテレ朝通り)

再建計画も長期的な修正を余儀なくされていたところ、たまたま当時東京電力が進めていた変電所新設配備計画のため、正光院境内地の土地借用の申し入れがありました。様々な条件を何回もの役員会で慎重に協議を重ねた結果、この申し入れを受け入れることとしました。しかし、東電との具体的な交渉など諸般の事情により工事着工までにはなお数年の時間が必要でした。

昭和53年7月28日、ようやく地鎮法要を執行し着工のはこびとなり、丸2年の工事を経て55年9月無事に完成し11月24日に高野山親王院前官中川善教大僧正を導師に迎え、東京支所下寺院住職を職衆とし、稚児御練りを先頭に盛大に落慶法要を厳修することができました。これもひとえに御本尊薬師如来、高祖弘法大師のご冥助のもと、檀信徒各位をはじめ、関係のありました十方有縁のい方々のご協力のたまものと深く感謝いたします。

なお、完成しました堂宇の位置は 完成間近に調査判明した境内堂宇配置古図面と全く同じであったことは奇しき因縁としか思われず深い畏敬を覚えます。